2008年08月13日

東条元首相の終戦直前手記見つかる…14日に自殺決意記す

東条元首相の終戦直前手記見つかる…14日に自殺決意記す
 東条英機元首相が、太平洋戦争の終結直前の1945年8月10〜14日に書いた手記が、国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることがわかった。
 手記には、終戦に反発する東条元首相の「本音」が散見され、研究者は「歴史的に価値ある資料」としている。
 同館によると、手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎氏が法務省へ寄贈した資料の一部。鉛筆書きの肉筆メモのほか、60年代に和文タイプで打ち直された資料がある。法務省が99年度に同館へ移し、昨年から一般公開の扱いとなった。
 8月10日の手記では、「東亜安定と自存自衛を全うすることは大東亜戦争の目的なり、幾多将兵の犠牲国民の戦災犠牲もこの目的が曲りなりにも達成せられざるにおいては死にきれず」(かな部分は原文ではカタカナ)と、重臣が集まった懇談会での自身の発言要旨を記録。
 13日には、「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」と自分の考えを記し、当時の鈴木貫太郎内閣や国民を批判している。
 終戦前日の14日には、「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と自らの死を決意している。東条元首相は終戦後の9月11日に拳銃自殺を図り、一命を取り留めた。
 昭和史に詳しい作家の半藤一利さんは「終戦直前の手記が公になるのは初めてで、価値がある。終戦間際の揺れる思いがよく分かり、戦況の不利を国民や当時の指導者のせいにする本音が表れていて面白い。終戦直前まで、東条は軍人として戦争継続をあきらめていなかったことは意外だった」としている。
 また、東条元首相に関する著書があるノンフィクション作家の佐藤早苗さんは「東京裁判中の手記は明らかにされていたが、終戦前のものは聞いたことがない。感情をあらわにした表現もあり、当時の政府幹部が終戦に傾いていくのを、裏切られたような気持ちで見つめていたのではないか」と話している。


 記事ではメモの一部抜粋しか見ることが出来ませんが、確かに面白い内容です。当時の戦争継続派の観点は国体の護持が最優先であったことからすれば、裏切られたという気持ちがメモに現れるのは当然でしょうね。東条元首相からすれば沖縄を米軍に制圧されたとはいえ、本土侵攻はまだ許していないことからすれば、数だけは数十万、いや150万近くを動員できたと言われている陸軍で本土決戦(決号作戦)に固執する感情があったのでしょう。

 しかし、広島、長崎に投下された新型爆弾(原爆)、ソ連赤軍の満州侵攻、欧州戦線の終結、日本海軍の機能停止、数だけで装備が行き渡らない陸軍などの材料から判断すれば東京陥落はゲリラ戦などを考慮しても時間の問題でありましょう。

 現代の価値観で東条元首相のメモを批判するのは簡単です。しかし、歴史は当時の価値観でもって判断しなければ全く意味を持たないことを意識しつつ分析することが大切ですね。自戒を込めて。
posted by やくも at 14:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年11月25日

「瀬島少佐と配達遅らせた」 日米開戦前

「瀬島少佐と配達遅らせた」 日米開戦前
 昭和16年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れた原因の一端を示すとみられる史料が、防衛省防衛研究所に保管されていることが分かった。史料は、米・ハワイの真珠湾攻撃成功を目指す旧日本軍が開戦直前、ルーズベルト米大統領から天皇あての親電の伝達を遅らせたことを明確に裏付ける内容で、旧陸軍参謀本部作戦課の瀬島龍三少佐(当時)の関与を示唆した文書が見つかったのは初めて。親電の一時差し止めが最後通告の遅れにつながった可能性を指摘する専門家もおり、通告の遅れをめぐる論議に一石を投じることになりそうだ。
〜略〜


 日米開戦の最後通告、つまり宣戦布告が何故遅れたかについては現在でも様々な憶測が飛んでいます。やれ、外務省の翻訳が予想以上に進まなかっただとか、前日に酒盛りしていただとか、軍部が邪魔したに違いないだとか様々です。

 今回の件は軍部陰謀説の可能性を報じるものです。ここで名前が挙がっている瀬島龍三少佐はつい先日亡くなられたばかりの人物です。彼は結構曰く付きの人物で捷一号作戦や満州でのシベリア抑留などに関わっていた話などがあります。どうやら彼が亡くなった後に公開してよい情報が出てきたのではないかと推測します。
 
 ただ、これをもって軍部陰謀説を唱えるのは早計かと思います。半藤氏も指摘していますが、当時の瀬島少佐にそれほどの権限があったとはどうにも思えません。いや、ノモンハン事変で一介の少佐であったはずの辻正信も陸軍少佐ではないかという意見もありましょうが、アレはかなりの例外と言える作戦指導でありますし、瀬島少佐が辻並に影響力を及ぼしていたという論拠が必要になってきます。

 推測するならなんとでもお話を作ることは出来ますが、本資料は戦史好きからすれば面白い内容と言えます。まあ、これをもって宣戦布告が間に合ったとしてもアメリカ側の態度は変わらないと思いますね。「ギリギリに宣戦布告などとは卑怯ナリ」みたいに言ってくるのではないでしょうか(それを日本陸軍に指導したのは明治時代に講師としてやってきたドイツのメッケル陸軍少佐だったと記憶しています)。普通に考えて、ハルノートで日本にケンカ吹っかけておきながら、攻撃を仕掛けられるとは思わなかったというほうがおかしいだろうと
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2007年10月27日

後漢代の四川省に製鉄所、「蜀」建国の理由に迫る発見か

後漢代の四川省に製鉄所、「蜀」建国の理由に迫る発見か
 中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターと成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。
 中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったのは初めてで、221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を建国した理由を解明する上でも重要な発見として注目される。同大で27日午後に報告される。
 秦の始皇帝(在位・紀元前221〜210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を置いたとの記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。その結果、今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、幅最大1メートルのレンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの高さがあったと推定され、日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。
 調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために積極的に入っていた可能性がある」と推測している。


 これは面白いですね。劉備や孔明が蜀に入った理由に当てはめるのであれば、彼らが蜀建国後にその製鉄所をどのように運用していったのかが注目されると思います。

 当時劉備玄徳は三顧の礼を持って諸葛亮孔明を幕下に加えますが、そのとき孔明は曹操が丞相として君臨する魏国、孫権が治める呉国の支配が及んでいない蜀に目をつけ、天下を三分する”天下三分の計”と呼ばれる孔明一世一代の大戦略を披露します。

 これは漢を建国した劉邦も実は蜀から天下統一を目指したもので、孔明は自分を劉邦の配下にいた名将韓信とだぶらせたのかもしれません。

 蜀建国後、魏と渡り合うための国力を蓄える必要があったわけでその製鉄所がどのように蜀へ貢献していったのかが注目されるのですね。
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2007年10月02日

教科書の沖縄戦「集団自決」修正問題、文科省が見直し検討

教科書の沖縄戦「集団自決」修正問題、文科省が見直し検討
 来年度から使用される高校日本史の教科書検定を巡り、沖縄戦の集団自決に「日本軍の強制があった」とする表現を文部科学省が検定意見をつけて修正させた問題で、同省は修正された記述の見直しが出来るかどうか検討に入った。
 先月29日に沖縄県で開かれた、検定意見撤回を求める沖縄県民大会に11万人が参加したことを受けた対応。
 教科書検定で修正された記述が見直されることになれば、極めて異例だ。
〜略〜


 僕はこっちのほうがよほど問題だと思いますね。ではなぜ修正するようにしたのか、こうした衆愚政治的対応では困ります。

 沖縄では11万人の人が集まったらしいですが、なぜこれだけ多くの人が集まったのかというのはその多くは遺族年金の問題があるからだと考えられています。何を言っているのかというとこれが軍命令によるものではないということになれば、現在遺族に支払われている遺族年金が支払われなくなる、そう危惧されているからです。そしてそれは当然の話になると思います。

 現在集団自決の話については軍命令が存在したという説のほうが懐疑的になっています。例えば座間などが典型例で現在では遺族年金欲しさに軍命令があったと当事者が証言するに到っています。文部省の検定後、色々新証言が生まれたと言いますが全部又聞きですから、そんなもんが証言になるわけがないというのが歴史検証の見地から明らかな話です。

 個人的には文部省の修正は早過ぎたのかなという印象を受けています。こうした大規模な集会の裏で、この沖縄を命を賭けて守ったにも関わらずこのような不名誉な非難を数十年の時をもってしても浴びせられる遺族の方々はどのような気持ちを抱いているのか。集会で無根拠に軍命令があったと騒いでいる人間達はそれを考えているのだろうかと少々暗澹たる気持ちになりました。まあ、この集会の中には沖縄の人じゃない人間が大勢含まれているような気がしますが、ここでは省略しておきます。
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2007年08月13日

嶋田元海相の「巣鴨日記」発見・在任時に開戦、A級戦犯

嶋田元海相の「巣鴨日記」発見・在任時に開戦、A級戦犯
 太平洋戦争開戦時の海軍大臣でA級戦犯被告だった嶋田繁太郎の巣鴨拘置所時代の日記(複写)が防衛省防衛研究所と国立公文書館で相次いで見つかった。嶋田元海相は戦後、一貫して戦争について沈黙を守り、巣鴨日記の存在もこれまで知られていなかった。海軍トップとして戦争を指導した思いなどが書かれており、昭和史の貴重な史料の1つといえる。
 日記の複写は1946年1月1日から47年9月10日までが防衛研究所図書館、翌日の9月11日から48年4月16日までが公文書館にあり、同じ日記が分割されたとみられる。原本の所在は不明。2つの日記は最近になって公開された。(07:00)

 ここで言われている嶋田繁太郎というのは大東亜戦争開戦時の海軍大臣で当時は東条英機首相兼陸軍大臣の腰ぎんちゃくとも言われた人物です。第三次近衛内閣が総辞職し、東条内閣から海軍大臣となった時には対米戦争を避けるには絶望的な状況でした。そんな中で東条英機首相に追従する形を取った彼の心中というものはあまり披露されていません。

 海軍三羽烏の存在や海軍から死刑者が出なかったことから、海軍善玉説がよく唱えられますが、海軍大臣としてどのような考えで戦争を見据えていたのかある意味注目されます。
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2007年07月22日

玉砕の島、アッツ島で集団墓地が発見される

玉砕の島、アッツ島で集団墓地が発見される
[アンカレッジ 18日 ロイター] 日米の専門家チームがアリューシャン列島のアッツ島で約500人の戦死者を埋葬したと思われる集団墓地を発見した。この島では第二次世界大戦中の65年前、日米の血みどろの戦いが繰り広げられた。
専門家チームが発見したのは骨のかけらが入った2足のブーツ、風雨の侵食にさらされた遺体だ。アッツ島を監視している米魚類野生動物庁の広報担当者が明らかにした。
アッツ島の戦没者遺骨収集は1953年、1978年に続き3回目で、4日間にわたって先週末に行われた。これまでに300体の遺骨が発見され、再埋葬されている。
アンカレッジの南西2736キロに位置するアッツ島は1942年、日本軍によって占領された。アレウト族の小さな村の住人は捕虜となり日本に送られたが、アッツ島には誰一人戻ってこなかった。
1943年、米軍は2週間に及ぶ戦闘の末、アッツ島を再占領した。米軍の戦死者は540人、日本軍は2400人。日本軍兵士のほとんどが降伏を拒み、自決し、生き残ったのはわずか28人だった。
発見された遺体は、短いセレモニーが行われた後、再埋葬された。
アッツ島の遺骨が最終的にどうなるかは日本政府が決定する。島に残すか、別の場所に再埋葬するための発掘が行われるかになる。

 アッツ島は太平洋戦争時に初めて日本軍が”玉砕”した島なのですね。アッツ島の玉砕を知った昭和天皇が打電を指示しますが、玉砕したアッツ島に受信できる人間がいないと言っても、それでも打電し続けるのだと言った逸話が残されています。

 この頃にはミッドウェーで帝国海軍が空母4隻を失うなどの大敗を喫し、ガダルカナル島での帝国陸軍敗退から一気に劣勢となっていきます。アッツ島といえば歴史のターニングポイントとして聞かれる島であったりするのです。

 もし遺族の方などが生きておられたら是非迎えて欲しいですね。きっと日本に帰りたいと思っているでしょうから。
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2007年06月23日

「イオウジマ」を返せ 呼称変更でアメリカ困惑「歴史書き換え」!?

「イオウジマ」を返せ 呼称変更でアメリカ困惑「歴史書き換え」!?
 【ワシントン=山本秀也】国土地理院が太平洋戦争の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に変更したことで、米国内で困惑が広がっている。米国では「イオウジマ」の名がさきの大戦での勝利を象徴する地名として定着しているためで、変更をめぐり「日本が歴史を書き換えた」(FOXテレビ)といった報道も飛び出した。
〜略〜

 元々戦前の日本、特に島民では硫黄島は「いおうとう」と呼ばれていました。それを戦後はアメリカに倣って「いおうじま」と呼ぶことにしただけの話なんですね。なぜ今変えるのかという疑問もありますが、「いおうとう」と呼称を変更することに何の問題も無いと思います。

 歴史を書き換えたというメディアの報道はある程度差し引いて見る必要がありますが、それでもこの反応はどうなのかなと。別に抗議が来た訳では無いようですが、日本の領土の島の呼び名を名称変更ではなく、呼び名を変えるだけの話でこれは話が膨らみすぎているような気がします。

 アメリカの本当の反応ってどうなの???
posted by やくも at 12:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年06月17日

第二次世界大戦の”大祖国戦争”における軍機密文章が一般にも公開開始

【ロシア】第二次世界大戦の”大祖国戦争”における軍機密文章が一般にも公開開始[06/14]
モスクワ 6/14(RTI Novosti)
6月14日に、公文書管理局の局長が語ったところによるとロシア国防省は1941〜1945年間における軍関係書類の機密扱いを解除したとのこと。
1941〜1945年の間に行われた大祖国戦争における、赤軍の陸・海軍書類に対する機密解除命令のサインは2007年5月8日になされていた。これにより国防省が既に機密扱いの必要性がないと考える、全ての公文書のデーターが公開される。
「我々は国防省と海軍及び軍医療の古い記録で、機密扱いだった公文書を解除しました。」とSergei Ilyenkov大佐は話してくれた。なお、これにより戦争期間中における400万点以上の国内公文書のファイルが機密扱いから解除されることになったとのこと。
彼は、研究者や他の希望する者もソ連の歴史において最も凄惨だった戦争中に起こったさまざまな出来事に対する情報を、解放された書庫から得ることが出来るだろうと語った。もっとも、いくつかの書類については機密のままにされるそうだ。
「例えば軍法会議の裁判結果に関連するファイルについても、解除命令には含まれていないので従来通りです。」と同大佐は話した。
当局によれば、最新情報で確認されたデーターで第二次世界大戦中にロシアではおよそ2660万人もの軍人と民間人を失ったと発表している。
また第二次世界大戦間での枢軸、連合国など政治上と関係のない死者は、合計推計で民間人の4700万人を含む、およそ7200万人だと言われている。

 正式な日本語訳が無かったので、2chから。

 面白いものが公開されたなぁというところですね。こららが翻訳されて、検証されてなどを考えると新事実発掘まで数年かかるのかもしれません。

 当時の戦況などで言えばソ連視点、要はコミンテルンの考えが見えにくいところがありました。それがこの資料から判れば面白いことになるのかなと思います。

 最近巷で言われている日本の盧溝橋事件や第二次上海事変などでコミンテルンが暗躍したという話が出ていますので、その裏づけが出てくるかもしれません。まあ、コミンテルンが自分達の活動を誇張するために流したとも言われていますが、どうなることやら。
posted by やくも at 12:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年05月01日

卜部侍従32年間の日記刊行との朝日新聞報道

逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ
 晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。
〜略〜

 そういえばこんな報道があったとすっかり忘れていた訳ですが、一応触れておきます。朝日新聞的には単なる本の宣伝だと思います。その宣伝の付加価値として靖国参拝の話を出しているのでしょう。何より先に靖国って言葉を使っていることがその証左でしょう。

 僕としては昭和天皇がA級戦犯として合祀されている松岡元外務大臣、白鳥敏夫元大使に不快感を持っていたことは恐らく事実だと思います。対米戦争を決定付けたとされる日独伊三国同盟の締結の推進者であることや、松岡評として「ヒトラーに買収されたのではないか」とまで言われてしまう始末。ただ、この卜部侍従の日記を読んでいないのでわからないのですが、この記事だけ読むと昭和天皇が参拝を辞めた直接的な理由が合祀であると卜部侍従が忖度しているだけのように思えるんですよね。

 個人的には合祀が理由で昭和天皇が靖国神社への参拝を辞めたっていうのが真実でもいいんですよ。ああ、そうなんだと思うだけで。昭和天皇がお気に召さなかった連中というのは靖国神社に祭られているごく一部の人間であって、他の祭られている英霊達っていうのはどんな形で殉じたのか、昭和天皇に分からぬはずは無いのです。もっと言うのであれば、日独伊三国同盟の締結について昭和天皇から裁可された時に松岡元外務大臣は泣き出したと言います。こういった背景や国のために殉じた英霊、現存する遺族のことを考えれば参拝を辞めた事のほうが不可解とも言えるのです。結果として昭和天皇は1975年11月21日を最後に参拝することはありませんでした。参拝を辞めた理由の第一に合祀が挙げられるのであれば、そこに上記のような疑問が立ち上るんですよね。個人的には朝日新聞が嬉々として報道するような簡単な話とは思えないんです。

 この辺りからどこぞの新聞がマッチポンプに精を出していたり微妙な時期だったりするので、まあ今のところは昭和天皇が靖国云々関係無しにとある靖国神社に合祀されている数名の人間を良く思っていないことを裏付ける日記が出たと考えるのが自然なんじゃないかと思います。

 この日記、読んでもいいんですけど高いなぁ・・・。しかも全五巻だから、後4冊も出るのか・・・。全部買うと何万掛かるんだ?
posted by やくも at 02:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年04月10日

好きな「三国志」の武将ランキング

好きな「三国志」の武将ランキング - goo ランキング

上位は予想通りと言えば予想通りですね。

個人的に不思議に思ったのは鳳統士元がいなかったこと。諸葛亮孔明と並び称される名軍師でどちらかを軍師に迎えれば天下を取れるとまで言われたのに、蜀攻略で早死にしたせいであんまり注目を浴びていないのね。。。

もっと疑問なのは、なんで張角がいるねん?
posted by やくも at 00:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年03月30日

とても為になる歴史の偉人達のお言葉

痛いニュース(ノ∀`):あなたが好きな「歴史上の人物の名言」は?…名言ランキング発表

私の好きな言葉はおしいことに第三位でした。

なんか知らない言葉も多かったので、勉強になりました。コメントも面白いので参考。
posted by やくも at 01:37 | Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史

2007年03月10日

昭和天皇侍従の日記発見っていうニュース

「支那事変やり度くなかつた」昭和天皇侍従の日記発見
 太平洋戦争の開戦前から終戦にかけて昭和天皇の侍従を務めた故小倉庫次(くらじ)氏が、昭和天皇の“肉声”を記録した日記が見つかった。
 「支那事変はやり度(た)くなかつた」という戦争への思いや、当時4歳だった義宮(よしのみや)(常陸宮さま)を青山御所に移す方針に「宮城(きゅうじょう)(皇居)の方がよくはないか」など手元での養育にこだわったことが記され、昭和天皇の素顔がうかがえる。
〜略〜

 最近色んな日記が都合よく見つかっているような気がしますが、これまた興味深い日記です。

 支那事変は盧溝橋付近で訓練していた牟田口廉也大佐(のちの悪名高きインパール作戦の軍司令官)率いる部隊が発砲事件を契機に起こした盧溝橋事件を契機に起きた戦争であったりします。戦争勃発後、陸軍参謀本部は石原莞爾少将を中心とし、戦争継続中止を求めますが、時の政府である近衛文麿内閣は「国民党政府を対手とせず」の声明を発表し、泥沼の戦争へと足を踏み入れるのです。

 支那事変における昭和天皇の見解は否定的であったのは既存の資料でも明らかですが、このニュースはそれを様々な形で補足する資料になると思います。トラウトマン工作が軌道に乗りかけたときに「よかったね」と口にしたのは有名な話ですね。

 読売新聞の記事を読む限り、昭和天皇像が変わるほどの代物ではなさそうですが、非常に興味深い資料だと思います。ちょっと買ってみようかな。
posted by やくも at 00:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年03月01日

宇都宮太郎陸軍大将の日記らしい

3.1独立運動の鎮圧を詳述 朝鮮軍司令官の史料発見
 日本統治下の朝鮮で1919年に起こった3.1独立運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(1861〜1922)の15年分の日記など、大量の史料が見つかった。独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。宇都宮は主に情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費10万円を提供させ、中国での情報工作費にあてた。旧軍の対外情報活動をはじめ、日本のアジア政策の裏面史を含む貴重な記録といえそうだ。
〜略〜


 宇都宮太郎陸軍大将とはこんな人です。

宇都宮太郎
宇都宮 太郎(うつのみや たろう、文久元年3月18日 (旧暦)(1861年4月27日) - 大正11年(1922年)2月15日)は、日本の陸軍軍人。イギリス公使館付武官、参謀本部第二部長、第7師団長、第4師団長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将、勲一等功三級。林太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。

 陸軍大将にまで上り詰め、軍事参議官を勤めた人物です。朝日新聞の報道では朝鮮軍司令官で紹介されています。個人的にこの人物はよく知らなかったのですが、ウィキによると日露戦争時の明石工作に携わったり、辛亥革命時に革命派の支援を行うなどをしていたようです。陸軍大学校卒業後、参謀本部付きになっているので、優秀だったようですね。大将にまで進級してますから当たり前か。少し調べましたが、こんなところだと思います。

 そんな人物の日記が発見された時の記事見出しがこれですから朝日新聞がどこの国の新聞であるのかを再認識させられます。新聞記事にあるとおり「日記は「日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記」(全3巻)として4月以降、岩波書店から刊行される。 」らしいので、単なる岩波の販売販促なのだと思います。日付のしゃれも効いています。

これは面白そうなので興味はあるのですが、岩波書店からの刊行なので私はやめておきます。
posted by やくも at 00:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年02月15日

萌える英国本土航空戦

萌えるバトル・オブ・ブリテン(徒然なる読書の日々出張版)

メッサーシュミットVSスピットファイヤー

これはすごい。
posted by やくも at 00:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2007年02月10日

真珠湾攻撃時の写真?

Never Forget December 7th 1941 Pearl Harbor 18 great pictures(エルエル様)

1941年12月8日(アメリカ7日)有名な真珠湾攻撃時の写真らしいです。当時の山本五十六の心中やいかに?って感じです。
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2007年02月01日

ゲッペルス宣伝相の邸宅

ヒトラー側近ゲッベルスの大邸宅、ベルリン市が売却へ
 ヒトラーの側近でナチス宣伝相だったゲッベルスが住んでいた邸宅を、ベルリン市が売りに出している。ネオナチなどの手に渡らないよう市が保護文化財に指定して保持してきたが、財政難で管理費用をまかなえなくなった。
 市などによると、邸宅は市中心部から北へ約40キロの湖のそばの静かな森の中にあり、約30ヘクタールの敷地に3棟、計30室を備える。36年にヒトラーの命にもとづき、土地などがゲッベルスに贈られたという。
 戦後は旧東独政府が集会施設などとして用いたが、90年の旧東西統一後に市の所有に。だがここ数年続いた景気低迷で市は財政難に陥り、年間25万5000ユーロ(約4000万円)の維持費を節約するため売却を決めた。
 ゲッベルスは当時の日記で一帯の環境を「大変静かで心地良い」と絶賛する一方、同じ日記で「ユダヤ人虐殺」の必要性に触れるなど、邸宅はネオナチの「聖地」になりかねない。市の担当者は「世界中から売却先を求めるが慎重に選び、その後の利用方法も注視していく」と話す。
 ゲッベルスは巧みな党大会の演出や言論操作で民衆を魅了、ナチス支持を拡大した。45年5月、ヒトラー死亡の翌日に自殺した。

 ベルリンにあるヒトラーのいた司令室も公開することでネオナチの「聖地」になりかねないっていう批判があったなぁと。
posted by やくも at 00:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

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